遅刻というアイデンティティ。

今日は真面目な話をしたい。

 

このブログは私の個人的な意見を、あまりに暇なためにこんなところまで迷い込んできてしまった子羊たちにぶち撒けるという、資本主義を絵に書いて破り捨て燃やし尽くし、その燃えかすの灰で近代アートに対する警笛を鳴らすようなジオグラフィクスな模造物を作るような、そのようなものである。

 

自分でもよくわからないが、つまりそういうことだ。

 

早速本題に入りたい。

 

なぜなら今横浜のルノアールでこの文章を書いているのだが、どうやらあと10分ほどで待ち合わせの友達が来てしまいそうだからである。

 

来てしまう、と書いたが、正しく言えば彼はまさに時間通り、待ち合わせの時間通りに到着したことになるのだ。

 

つまり彼は全く悪くない。少なくとも、この社会における時間厳守の絶対的ルールに伴った資本主義経済において、正しい経済活動を行っていると言って良いだろう。

 

しかし、一方で、これは完全に彼の失策だと言っても良い。

 

物事の判断は常に、アップデートされ続ける判断基準によって成り立っている。普段の行動や言動の積み重ねによって、人は人たり得る。

 

性格や人格、人が人を表す時に使われる、あの人はこういう人だから、という認識。

 

それらはすべてこれまでの積み重ねであり、ある種の「人は変われない」という発言はあるいは、今までの積み重ねの相対評価である人という価値基準を覆す(または誰から見ても異質なものへと昇華させる)には、多大な時間を要する、ということなのかもしれない。

 

「彼」の場合の話に戻そう。

 

彼は普段、必ず時間に遅刻してくる。

 

必ずだ。間違いなく遅刻してくる。もはや遅刻ですらないのかもしれない、だって誰もが彼は「待ち合わせ時間より遅くくる」のがわかっているのだから。

 

まあ世間一般でいうところの遅刻魔である。しかもなぜか彼は10~20分ぐらい遅刻することが多い。

 

例えば1時間遅刻する、とか、それこそ30分遅刻するとかであれば、出る時間を早くしようとか、待ち合わせの時間にシャワー浴びてたら遅刻するよな、とか。

 

何かしら具体的な、時間的な対策を打っていくことができると思う。普段より30分早く家を出ようとか。

 

しかし10分の遅刻はもう完全にメンタルである。実際に動きが悪いわけではないだろう。だって、どの約束にも10分ほど遅れて来るのだから。

 

これはもう完全にメンタル。メンタルゲーム。Yes, this is MENTAL.

 

アドラー心理学に則って分析するのであれば、「彼は何かを求めるために遅刻するという選択肢を取っている」ということになる。それを今ここであけすけに分析するのは個人の名誉とも関わるので控えたいと思うが、まあそういうことだ。

 

ちなみに、先ほどもお伝えした通り、彼に関してはもうすでに遅刻マスターとしての地位を確立しており、遅れることに対してもはやある種の期待感すら抱かれているので、遅刻することに関しては特に何か不満があるわけでない。

 

しかし今回の件に関しては別である。遅刻マスターが遅刻せずに来るとは、なんたることであろうか。

 

これは明確な裏切りであり、脱藩行為である。時間通りに来るということの意味を、彼は認識しているのであろうか。

 

それはアイデンティティーの喪失であり、彼が彼で無くなるということと同義だ。一体、彼は今後どういった生存戦略を組んでいくつもりなのであろうか。

と、ここでその問題の「彼」から、お腹が痛くなったからトイレに行くので遅れます、というラインがきた。

 

彼は期待を裏切らない。

 

彼は使命を全うしているのだ。

 

みんなからの期待を一身に受けて、うんこという選択肢を明確に提示し、遅刻というビジョンを皆に提示し続ける。

 

そんな彼が、僕は好きだ。

 

本当に全然こんな話する気はなかったのにな。

 

現場からは以上です。