フリ◯ンで生きたっていいじゃない。
「人にどう思われるか」
人はみな、他人の目を気にして生活している。
特に日本人には、その傾向が強いように思われる。
あれをすると周りから変だと思われるからやめよう。これは人から見て変ではないだろうか。変わっているというレッテルを貼られてしまうのではないか。
人は皆、他人の評価を気にしながら生きている。
この世の中で、人として生きる時点で、それは当然のことである。他人の評価、他人からの視線、どう思われるか。それを気にしながら生きるのは、悪いことでない。
誰だってそうである。僕だってそうだ。
フリ◯ンで歩きたい。よく晴れた気持ちのいい日は、フリ◯ンで外を歩きたい。フリ◯ンで街中を闊歩したい。
そう思うのは僕だけではないはずだ。君だって、本当であればフリ◯ンで歩きたいところを、他人の目を気にするあまり、フリ◯ンで歩けなくなっているのである。
フリ◯ン。それは全人類の憧れであり、息苦しい世の中に対するアンチテーゼであり、氷上にたゆたうロマネコンティの輝きであり、人でありながら人ではない、魔界からのパニッシャーである。
みんなフリ◯ンで歩きたいのを隠して生活している。「フリ◯ンで歩きたいなー」と思いながら、今日も衣類を身にまとって出勤しているのだ。
これは何も、男に限ったことではない。女性だって、フリ◯ンで歩きたいのだ。春うららかな日に、お気に入りのコバルトブルーの帽子をかぶって、フリ◯ンで歩きたいと思っているのだ。
しかし、実際にフリ◯ンで街を闊歩している人はいない。
あなたはフリ◯ンで街を闊歩している人を見たことがあるだろうか。
フリ◯ンで鼻歌を歌いながら、原宿通りを歩いている人を見たことがあるだろうか。
そう、あなたはフリ◯ンで街を歩いている人を見たことがないはずだ。全人類が望んでいる欲望、フリ◯ン。しかし、実際にフリ◯ンで歩いている人を見たことがないのである。
なぜか。
それは、皆が他人の目を気にして生活しているからである。
「フリ◯ンで歩いていたら怒られる」と思っているのだ。
「フリ◯ンで歩いたら、また周りから変わった人だと思われてしまう」
そう思って、慌てて玄関でストールを羽織る。そんな毎日を繰り返しているのである。
しかし思い出して欲しい。あの頃を記憶を。
フリ◯ンで歩きたいと、心のそこから願った、あの時の決意を。
どうして人は変わってしまうのであろうか。フリ◯ンで歩きたい、フリ◯ンで生活したい、フリ◯ンフリ◯ンフリ◯ン。
フリ◯ンのことに思いを馳せ、フリ◯ンとの思い出話に花を咲かせる。
そんなキラキラとしてフリ◯ンとの思い出にさえ蓋をし、また玄関でストールを羽織る日々を繰り返してしまっている。
そんなことで良いのか。それで良いのだろうか。
もう、フリ◯ンで出歩くことはないのだろうか。あの頃のように、フリ◯ンでフリ◯ンらしくフリ◯ンサーとして、SNSを更新することもないのだろうか。
ああ、フリ◯ン。どうして、どうして君はフリ◯ンなのか。もとい、フリ◯ンではないのか。
フリ◯ンでいられない人生なんて、ルッコラのないマルゲリータのようなものである。
フリ◯ンのままルッ◯ラの載ったマルゲリータをほうばりたい。
フリ◯ンで歩きながら、ルッ◯ラだらけの◯ゲリータにむさぼりつきたい。
そう思って生きていたって、いいのではないだろうか。
ああ、フリ◯ン。どうして君はフリ◯ンなのか。
フリ◯ンの上にフリ◯ンを作らず、フリ◯ン下にもフリ◯ンを作らず。
フリ◯ンのフリ◯ンによるフリ◯ンのための政治。
みんなもっと自由に生きていいんじゃないだろうか。
フリ◯ンだっていいじゃない、人間だもの。
なぜこんなことになったのか。
この文章を書き始めた時、誰がこんなにフリ◯ンを連呼することになると予想しただろうか。
フリ◯ンとはかくにありき。
まっこと、フリ◯ンとは恐ろしいもんじゃあ。
現場からは以上です。