【映画評】「セッション」怒りをポジティブに捉える違和感

人は自分が持っていないものに憧れるものだ。
 
運動ができない人は、スポーツマンに憧れる。勉強ができない人は、学歴に憧れを持つ。人見知りの人は、社交的な人に憧れる、むしろ敵意を持つ(急に例外)
 
スタイルに難ありな人は、ナイスバディに憧れるし、色黒な人は色白に憧れる。背の高い人は、背の低い人が好きだ(主観)
 
ドラムに憧れる人は多い。リズムを自分の身体一つで表現することができる技能に、憧れを抱く人は多い。私、リズム感ないんだよね、なんていう人もいるが、大丈夫、普通の人はリズム感なんてないんだから。
 
それにドラムなんてものは、結局打楽器であり、叩くことによって音を表現する楽器で、どうしても筋力がものを言う。そうだ、人はマッチョに憧れるものなのだ。
 
「セッション」は2016年の映画で、映画好きの間では話題となった作品である。何がどう話題になったかはよくわからないが、とにかく映画好きなら見ている映画だし、その評価も総じて高い作品だったはずだ。
 
今まで何となく見ていなかった作品の一つだったのだけれど、人生は短いし時間は有限だから、見てみようと思い、重い腰を上げた(見た理由が雑)
 
まず結論から言うと、思っていた感じと違う作品だった。予告編とか、他の人の感想とかを読んだ感じで予想していたのは、「自分に自信満々な主人公が名門のバンドに入り、鬼コーチに反発しながらも熱い友情を育んで大きな大会で素晴らしい成績を残してフィナーレ。音楽ってやっぱり素晴らしいし、人と人との信頼関係って素晴らしいね、もうなんか、素晴らしいね。」みたいな映画だったと思っていた。
 
内容としては「ドラムライン」のジャズバンドバージョンかなって。
 
「セッション〜音楽が育む厳しくも美しい師弟関係 Life is Beatiful~」みたいな感じかなって。
 
でも全然違いました。びっくりするぐらい違いました。
 
ストーリーは、ドラムを愛し、将来は偉大な音楽家になることを夢見る主人公が、全米でもナンバーワンとされる大学のジャズバンドに入り、鬼コーチとの厳しい訓練を重ねて、、、って感じ。
 
内容しゃべっちゃうとネタバレになっちゃうから言わない。その代わり見終わった後に自分が感じたことを書いていきたい。(それが映画評論であってる?)
 
主人公はあくまで、音楽家として有名になることを人生の目標としている。だから、今を楽しみたいとか、音楽が楽しいっていう描写は基本的には出てこない。音楽家として偉大になるにはどうするのがベストか、偉大になるというのはどういうことか。それだけを考えて行動していく。
 
印象的だったのは、親族や昔からの友人との食事シーンだ。一族に音楽家出身のものがいないこともあって、ミュージシャンへの評価が低い空気感の中で、友人の一人が大学のアメフトでMVPを取ったという話で盛り上がる。負けん気が強い主人公は、そいつを小馬鹿にした発言をして、軽い言い合いになるのだけれど、そこで思うのは「アメリカ特有の価値観ってすごいな」ってことと、主人公の「人々の記憶に残る存在への憧れの強さ」だ。
 
まず映画慣れしていない人だったり、アメリカ文化にあんまり興味ない人には違和感があるシーンだと思うんだけど、アメリカの家庭の「アメフト最強感」は異常である。アメフトこそが正義。アメフトうまい奴がすごい奴。アメフトをよく知らないような奴はダメ。筋肉最高。プロテイン飲みたい。
 
しかし主人公からしたら、アメフトなんてどうでもいいし、権威が大事。だからその友人のチームが大学の3部リーグであることをバカにするのだ。2部ですらないじゃないかって。
 
もちろんバカにされたらカチンと来るわけで、じゃあテメエ練習来てみろよって言い返す友達、そしてその友達の父親もカチンと来ていて、友達もいっぱいいるしなってフォローするんだけど、主人公はお構いなし。そんなに友達がいたって、結局プロにはなれないんだし、人々の記憶には残らないよ、偉大な人物にはなれないよと。
 
一体何が彼をそこまでの思想に持って行ったのか。どうしてそこまで記憶に残るほどの偉人になりたいのか。僕には全く理解できなかったし、僕の読解力では映画内でその理由を探し出すことができなかったのだけれど。
 
なぜ死んでまで人々に覚えておいて欲しいのだろうか。死んだらもう関係ないんだから、覚えてもらっても仕方ないと思うんだけど。
 
日本の映画やドラマでも、例えば一時期流行った「不治の病で若くして死んでしまう彼女」スタイルの映画。(こういう言い方は失礼かもしれないけど)
 
そこで出て来るフレーズとして、「忘れないで欲しい」だったり、「俺たちだけでも覚えておいてあげよう」みたいな話って、何なんでしょうね。
 
死んでもなお人々の記憶に残っていたい、覚えておいて欲しいって、どういう感情からくるものなんでしょうね。もちろん死ぬ人は、死にたくて死んでいるわけじゃないので、寂しいっていう気持ちはわかるし、死が不安だっていうのもわかるし、怖いっていうのもわかるし。ただ死んだらそのあとは、残った人たちにしてあげられることはないのに、残る人たちに過去を押し付け続けるっていうのは、ものすごいエゴだなって思ってしまう。
 
残る人たちが勝手に覚えているのは、それこそ勝手だと思うけど「忘れないでね」なんて、死んでも言えない気がする。でもその映画やドラマが流行っていたということは、その価値観をすんなり受け入れられる人がたくさんいたってことなんだろうな。
 
あと印象に残っているのは「怒りっていうのは、ものすごいパワーなんだな」ってことです。主人公がコーチに反発することで生まれてくるパワーしかり、フィナーレで激突する因縁しかり、この映画には全体を通して「怒り」のオーラが漂っている。
 
そう考えると、晴れた日の描写もないし、暗い室内のシーンがほとんどで、作り手側のメッセージも、そういった怒りや不満や、恐れなどをテーマとしているのだろう。
 
映画としての締めで伝わるメッセージは、怒りのパワーによって得られる偉大な功績があり、そういった蓄積した鬱憤を爆発させることにより生まれる傑作もあるのだ、っていうプラスの見方で幕を閉じるのだけれど、物語を通して感じる違和感の正体は「怒りなんて感じなければ感じない方がいいと思う」ってことだ。
 
何かを成し遂げる偉大な人物は、逆境であったり、苦難を乗り越えて、その域に到達するのだっていう、昔ながらの成功法則みたいなものが、さも当然のように語られる価値観に違和感を感じているのかもしれない。
 
努力というか、時間だったり、何かを犠牲にしなければ到達できないものはあると思うけど、怒りだったりという負のストレスを感じることが必須っていう考え方は、結構危険じゃないかなとも思った映画でした。
 
時間ある方はぜひ。そして感想を聞かせてください。議論しよう。
 
現場からは以上です。