【映画評】正解なんてないから、、「百円の恋」

人は常に孤独と戦っている。どんなに友達に囲まれた人でも孤独からは逃げられない。どんなに暖かい家庭を築いているように見える人だって、孤独からは逃げられない。

 

映画や小説、数ある漫画やストーリー。大半が男女の(でなくとも)「恋愛」を描いたものだと気がついたのは、僕が高校生の時だったと思う。僕は当時から映画が大好きで、親に黙ってDVDプレイヤーを買い込み、部屋で隠れてずっと映画をみていた。

 

有名どころと言われるアクション、スパイ映画、サスペンス、警察もの、コメディを片っ端からみた。自分は反権威主義の思想をたぶらかせているくせに権威主義的なところがあり、「名作」と言われている作品も見たがるタイプである。

 

大方の有名どころを見終わった後、僕は衝撃を受けた。まさに青天の霹靂、イナズマに打たれたかのような衝撃である。,,,そういえば、田んぼに雷が落ちると、稲がよく育つらしい。だから「雷」っていう文字は「雨」に「田」って書くし、「稲妻」も「稲」の「妻」って書くのだそうだ。

 

そんなことはどうでもいい。映画の話である。映画をみて晴天の稲妻の話である。

 

そう、僕は気づいてしまったのだ。映画や小説、漫画の類っていうのは、90%が恋愛について描かれたものなのである。それがどうしようもないドタバタコメディだろうと、ビルから飛び降りながら相手の頭を撃ち抜くスパイものだろうと、世界の果てから「すごい強い奴ら」がやってきて「普通なら絶対勝てない」ところを主人公がすごいやつでなんとか倒して地球最高☆な映画だろうと。

 

全て恋愛を描いた作品なのである。どんなジャンルの映画でも必ずと言っていいほど恋愛の要素は含まれているのだ。

 

では恋愛とはなんであろうか。恋ってなんであろうか。愛って一体、なんなのだろうか。

 

それを語るには僕はまだ若い。若いっていうか、弱い。弱いっていうか、もうなんかあれだ、あのーあれだ、経験がその、あれだ。

 

しかし僕は思うのである。恋愛やら、カップルやら、結婚やら、セックスやら、、結局それは形を変えた孤独との戦いではないだろうか。戦い方、と言ってもいいかもしれない。

 

結婚とは、孤独との戦いの過程で生まれてきた概念ではなかろうか。いや、もちろん昔は違ったかもしれない。農耕民族としての子孫繁栄のために、結婚という制度が最も便利であったために採用された社会システムだったかもしれない。

 

しかし現世はどうであろうか。少子高齢化に晩婚化、子供を生涯持たないどころか、一生結婚しない人が男性23%、女性14%(国勢調査調べ)になっている現代。さらに保育園落ちた、Fuck Japan! という言葉が2ちゃんでバズる時代である。保育園事情は厳しくなる一方で、子供を育てるコストはますます高まっているような状態である。

 

こんな状態であるから、子供を持たない選択肢をとる夫婦や、事実婚などの選択肢を選ぶカップル、そもそも結婚しない人っていうのは、今後確実に増えていく。

 

そうなってくると、結婚って何?恋愛って何?愛ってなんですか?コンビニでも買えますか?もう少し探しますか?探したけれど見つからないのに。ってことになる。

 

しかし恋愛はなくならない。この世から愛が消えることはない。なぜなら子孫を残すために生物の遺伝子にもともとインプットされている、、、とかっていう話ではなくて。

 

それは孤独と戦うためである。孤独と戦うための武器として、結婚や恋愛や、愛というものが必要になってくるのだ。

 

これは男女間に限ったことではない。男同士の友情にも当てはまるし、グループでの関係性にも当てはまるし、コミュニティでの立ち位置などにも関連してくるだろう。ようは孤独と戦うための手段なのである。人は孤独からは逃げられない。常に戦い、または戦うための準備をしておく必要がある。

 

そんなことを感じさせ、考えさせてくれるのが映画「百円の恋」である。

 

主演は安藤サクラ、助演俳優に新井浩文である。最高である。

 

安藤サクラが演じるニートの主人公。この描写は強烈なものがある。普段なら「ああ、こういうひとね、ニートね」と軽く流せる部分であったかもしれないが、今は違う。なんせ明日は我が身である。もうすぐニートである。普通に生きていけない。どうしたらいいですか。

 

そんな自分の境遇も手伝ってか、このニートの描写には強烈に感じるものがある。しかしこの感情は、誰にでもあるものだとも思う。

 

どんなに立派に働いている人でも、毎日頑張って会社に通って仕事をしている人でも、一歩道を踏み外したらこうなるという恐怖、レールから外れたらどうなるかわからない恐怖、他の人と違う道を歩む恐怖。

 

当然である。誰もが思い描く恐怖であろう。そんな恐怖から逃れるため、社会と自分がつながっているという実感を得るため、孤独と向き合うのを避けるため、我々は働くのだから(それが全部ってことではないよ)

 

しかしこの映画の主人公(仮にここでは「一子(いちこ)」としよう(なぜ仮にした))は、その現実を聴衆にまざまざと見せつける。避けようのない描写、明らかなニートさ、むしろエリート、ニート界のエリートさをスクリーンにさらけ出すのだ。

 

年齢は32歳。32歳でニート。32歳で実家暮らしの職なしニート、処女。

 

どうだ、これだ。日本よ、これがニートだ。ニートここに極まれり。

 

これが56歳だったらどうであろうか。ああ、56歳のニートってかわいそう、時代が変わってきてるもんね、でもきっと若い時にちゃんとしなかったんだ、だらしなかったんだ、だって56歳でニートってありえなくね?普通に。ちゃんとやってればそんなことにならないでしょ、普通に。56歳でニートってどういう状況だよ、普通に。

 

でも主人公は32歳のニート。そうなると、「はわわわわ、、俺もああなったらどうしよう、あと4年だよな、ニートって結構リアルだよな、仕事につけなかったらニートだし、うつ病になったらニートだし、人間関係うまくいかなかったらニートだし、はわわわわ、、」ってなるわけですね。(自分の歳が近いだけだろ)

 

子どもの頃、28歳の自分とかって、全く想像していなくて。どんな人間になって、何しているかなんて、まったくイメージできていなかったけど。でも、子どものころに思ったより社会には暗いイメージが溢れているし、思ったより人生楽しんでいる人って少ない(急になに)

 

この映画もそんな暗いイメージをまとった作品になってる。なってるけど、そこには明るさもある。救いもある。

 

その明るさは「待ってたらたまたま空から降ってきました」って感じじゃなくて、自分でドアを開けて、新しい世界に出て、一歩づつ手探りで進んで行ったら、少しだけ見えてきたって感じのものである。

 

でも問題はその明るさの大きさではなくて、自分で手に入れたっていうことだと思う。家に引きこもってたら得られなかったであろう光。その光を手にするまでに辛いこともあった、嫌なこともあった、なんなら嫌なことの方が最初は多かった。

 

でもその光が見えてきたとき、もうちょっと頑張ろうって思えるし、きっと自分はこのままでいいんだ、この道を進んで行っていいんだ、って思えるんだ。

 

正解かどうかはわからない、一子にとって、掴んだ小さな光が結果的に成功につながるかどうかなんてわからない。でも結局考えてもわからないから。目の前に二つ道があって、どっちが正解かなんてわかってたら誰も間違えないし、「ドラマ」っていう言葉すら生まれなかっただろう。ドラマが起こるのは、その先に何があるかわからないからなんだ。

 

正解がわからないなら、行きたい方に進めばいいだろう。大事なのは、「結果成功する」ことではなくて、自分が行きたい方向に進むことで、それによって自分に自信がついて、「結果自分の人生を楽しむ」ことなんじゃないか。

 

そう思わせてくれる、そんな、なんとも言えない、最高の映画でした。

 

あと新井浩文最高。

 

現場からは以上です。

 

あ、もちろんアマゾンプライムで見れますよ。

 

 

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