圧倒的な文章の才能をあなたに。

なんと、気がついたら前回のブログから1ヶ月近く経ってしまっている。このブログの熱烈な(そして唯一の)読者である友達から、あまりある高評価と記事の催促をしていただいた。新進気鋭の文筆家(?)として、嬉しいかぎりである。(ただしその発言があった場では、エタノールの過剰摂取のため、すでに全員が酩酊状態となっており、発言内容の真偽は不明である。)

 

その日はとにかく褒められた(気がする)

 

確か友人の一人からは「お前は世界に唯一無二の天才であるのだから、労働者階級の愚民どもと一緒のライフワークに甘んじていてはいけない。すぐに天界へと向かい、その遥かなる高みから、貴君の才能を世界のために役立ててくれ。」的なことを言われた気がする。

 

もう一人の別の友人からは「文章には圧倒的に才能が必要だ。お前のその才能の量は尋常ではない。その「地中海の海の水が全て入る」と言われたほどの貴様の器のデカさがあれば、世界を飲み込むことさえ可能であるだろう。さあ、立ち上がるのだ。何を恐れている?後ろを振り返るな!Just Do It, man!!」って言われた気がする。

 

だから今日も僕は文章を書いている。ありがとうマイフレンド。僕はもう決して振り返らない。自分にできることをコツコツと、粛々と、シンプルにやることが重要だ。背伸びをする必要はない。自分の才能を、社会に還元して行けばいいだけなのである。(お前誰や)

 

 

「文章のうまさ」って何なのでしょうか。自分の思いを相手に伝えるために生まれた「言葉」は、口から発して音にすることによって、より簡潔に、スピーディーに、相手に自分の意図を伝えることができる。

 

そのコミュニケーション作法は、発せられた音の種類だけでなく、イントネーションや強調、そして身振り手振りからなるボディーランゲージなども合わせて、自分の伝えたい内容を表現することができる。

 

一方、文章ということになれば、そこには文字以外の情報が存在しない。もちろん表現の工夫は可能であり、例えばアンダーラインであったり、文字フォントを大きくしたり、カラーを変えることによって、情報に強弱をつけることができる。

 

しかし、例えば小説であったり、普通の本というのは、そういった抑揚を使わず、一切を文字のみで勝負している。コミュニケーション手段としては、非常に原始的というか、工夫のない伝達手段と言えるかもしれない。

 

逆に言えば、文章とは読み手の想像力に依存するものなのかもしれない。例えば、小説ならば、登場人物の顔、服装、風景など、全てが読み手の想像力によってイメージされる。同じ本を読んでも、読む人によって、そのイメージは違うだろう。

 

小説を読んだり、文章を読むのが好きな人は、きっと自分でイメージするのが好きな人だろうと思う。

 

とすると、文章がうまい人というのは、読み手にイメージさせやすい人というよりは、よりイメージすることを強いるタイプの人なのかもしれない。

 

ということは?どういうこと?なんかよくわかんなくなって来たけど、とにかく文章で人を幸せにできるようになりたい。(急に?)

 

文章で人を爆笑させられるような、そんな人になりたいな。日々精進あるのみだと思います。

 

現場からは以上です。