「効率化」そのものに幸せが潜む

本を読んでいる時が一番幸せである。一番は言い過ぎたかもしれない。「ひとり遊び」の中では、本を読むのが一番好きである。特にご飯だったり、お菓子だったりを食べながら読むのが最高である。「食事を取る」という、人間にはなくてはならない、あえて言うのであれば「義務付けられた日々の業務」をこなしながら、新しい知識、世界に入っていける「本」は最高である。「ながら読み」ほど私を惹きつけるものがほかにあるだろうか、いやない。

 

さらに移動中の読書は至高である。「移動しながら」読むという感覚が至高。移動という、時間がどうしてもかかってしまう一見無駄に見える行為も、「ながら読み」という魔法を使うことにより、「移動しながら」新しい知識、新しい世界に入っていける本は至高である。「ながら読み」ほど私を惹きつけるものがほかにあるだろうか、いやない。

 

さらに、この上記二つを組み合わせた「食事しながら移動しながら読み」という禁じ手もある。古来より一子相伝、口頭伝授でのみ伝わる秘技の類である。厳しい修業に耐え抜き、さらにそこから最終的に選ばれたものにしか行うことが出来ないという、奥義の類である。恐ろしや。

 

人類(というか私)がこれほどまでに「ながら読み」に惹かれる理由はなんであろうか。「ながら」に関するものであれば何でも良い。「通勤しながら音楽を聴く」「テレビを見ながら炊事洗濯」「ウンコしながらダンス」「NSAに日本の内務省に関する情報をリークしながらペアーズで恋人探し」

 

みんな「ながら」が大好きなのである。巷には「ながら族」なんていう言葉もあるぐらいである。僕だって「ながら族」になりたい。「ながら族」のトライブを作ってこの昂ぶる気持ちを栃木県のみんなに届けたい。(はあ?)

 

とにかく、人は皆「ながら」が好きである。ではなぜ好きなのか、それは非常に簡単、明快である。

 

「ながら」とは2つ(ないしは3つ)の行為を同時に行うことであり「非常に効率の良い行い」ということができる。そう、人間はみな、効率の良いことが好きなのである。むしろ人間が人間足り得ているのは、この効率化が好きだからと言えるかもしれない。効率化を追い求めることによって、科学は発展してきたし、人類は今やウンコを水に流すのだ。

 

そもそもこれは個人的な好き嫌いというものでもないらしい。今まで「効率化が嫌いな人」に出会ったことがないのだ。しかしこう言うと「いや、ちょっと待て。効率化を嫌う人間もいるはずだ。だから日本のテクノロジー、科学の進歩は他の先進国と比べて遅くなっているのだ。そもそも明治時代には、、」なんていい始める奴がいるだろうけど、ちょっと待って、話を聞いて。

 

各コミュニティには確かにそういう人もいるだろう。はたから見ると「効率悪いなあ」と思うようなことをやっている人もいる。しかし、それは「その人にとっては効率のいいこと」であるか、または「効率が多少悪いことになったとしても守るべきルールがある」場合が多い。その人はその行為を「結果的には(自分にとっては)一番効率のいい行為」と信じているのだから、結論としては「効率の良いことが嫌いな人はいない(効率の悪いことが好きな人はいない)」のである。

 

でもこういうことを言うと「いや、ちょっと待て。日本には「侘び寂び(わびさび)」の文化がある。あえて効率の悪いことをすら良しとする文化があるではないか。これをどう説明する?そもそも大正時代に我々日本人は、、」なんて話をし始める人がいるけど、そんな人はチョコ、もといワサビになっちゃえ。

 

それらはある時期に決められた「作法」であったり、「型」であったりするわけで、そこには「信念」があり「思想」がある。言ってみればその世界にはその世界のルールがあるわけである。先にも述べたように「ルールを守ることにより出る効率の悪さ」は、必ずしも「効率の悪いことが好き」という論理には当てはまらない。「自ら悪を望むものはいない」。アドラー心理学の教えの通りである。

 

 ここでせっかくなのでアドラー心理学にも触れておきたい。「アドラー心理学」と一言にいっても、私の知識は「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」の2冊オンリーなわけで、大した知見があるわけではないが、ぜひ来月あたりに「アドラー飲み」を開催したいと思っているので、それのきっかけとなるように知識をひけらかしていきたい。

 

そもそも「それはそれで書評を書いたらいいじゃん」という意見が出てきそうだが、それは本当にそうなので何も言い返せない。この回を書き終わったら即座に書き始めるつもりだ。だから、ね?触りだけでも書かせてくれない?(だまれ)

 

そもそもはっきり言って、このブログの読者として想定しているのは2人の友達である。逆に言えばそいつらに読んで貰えればいいのだから、自由に書いて何が悪い。あ?なんだ?文句あっか?(いいから早く書け)

 

アドラー心理学について、たらたら書き始めるとクソみたいに長くなるから、先ほど言及した「自ら悪を望むものはいない」というところだけを、少し掘る感じで紹介していきたい。

 

アドラーの考えは、基本的には性善説である。というか「性善説」という考えがそもそも間違っているという立場だったはずだ。というのも、「自ら悪を望むものはいない」からである。全ての人にとって、全ての行いは善であり悪たり得ない。

 

アドラー心理学における基本的な考え方の中で、重要となるのは「課題の分離」と「目的論」である。「課題の分離」とは、自分と他者の課題を分離する必要があるということで、例えば引きこもりの子供がいたとして、その子が社会に出るかどうか、この後どうやって生きていくかは、あくまで「子供の課題」であり、「親の課題」ではない。もちろん、親であるのだから、最大限のサポートをするということを相手に伝える必要があるだろうが、課題そのものはあくまで子供の課題なのであり、親が悩んでも仕方がない、親に出来ることは応援したり、いつでも応援しているよと伝えることだけだ、という立場を取る。

 

また「目的論」でいうと、対比として出てきているのが「原因結果論」である。例えば先ほどの引きこもりの例で行くと、「原因結果論」では、子供が引きこもるという「結果」に至ったのは、何かしら過去に「原因」となる事柄が起こったはずだと考える。この場合の対処法は、実際に過去に起こった事柄を明らかにし、それに対する考え方を変えたり、傷を癒したり、忘れようと努めたりする。(なんせ起こったことは変えられない)

 

現在巷で行われているカウンセリングのほとんどがそうであるし、トラウマ(心的外傷)などもそういったところで出てきた医学用語である(たぶん)

 

しかしアドラー心理学では、「トラウマ」を断固認めない。そんなものはない、と断言するのである。「目的論」に沿って見ていこう。引きこもりの子供の例でいくと、目的論とは、「子供が引きこもっている(引きこもるという行動を選択している)のには目的がある」と考えることだ。親の注目を集めたい、社会に出て「普通の人」と同じように生きていくのが嫌だ、親に心配してほしい、大事に扱われたい、特別だと思われたい。。。

 

そういった子供の目的達成のために、引きこもりという行動をとっているわけで、過去のトラウマ何ちゃらは関係ないのだ、という考え方が目的論である。

 

ここで先ほどの「自ら悪を望むものはいない」という考えに立ち返ると、どんなに一般的に見れば悪質な行為、悪意のある行為であったとしても、その人にはその人の目的があったはずで、その行いはその人にとっては「善」であったはずだ、という考え方を取る。しかし周りの意見が、、という話もあるし、もちろん法に触れる行為は罰せられるべきであるが、それ以外(法に触れる部分以外)は他人の問題であり、基本的には関係ないと定義するのである。(課題の分離)

 

どうであろうか。文章が稚拙なのでどこまで伝わっているかわからないが、アドラー心理学は今の常識に真っ向から挑戦している心理学だ。とても面白いから「嫌われる勇気」から読んでみてほしい。次回書評も書くし。(っていいながら書いてない事柄の数々、、)

 

とにかく話を戻すと「効率のいいこと」に人は幸せを感じるということです。(そんな話だっけ?)  やっている内容は何であれ、効率がいいという時点で幸せを感じることが出来るなんて、なんて幸せなんでしょうか(急にどうした)

 

ホリエモンがよく言っている「普段から徹底的に効率化して、スケジュールを詰め込んで忙しくしていれば、どうでもいいことで悩むことも無くなるし、人生楽しいよ」っていうのは、そもそも効率化することだけでも人は幸せを感じることが出来るのだから、そこを突き詰めつつ、さらに楽しいことばかりでスケジュールパンパンにすれば人生パンパンじゃね?っていうことなのかもしれない(はあ?)

 

人生パンパンにしよう。現場からは以上です。